ぼくのプレミア・ライフ/ニック・ホーンビィ

久々に再読。やっぱり面白い。

ぼくのプレミア・ライフ (新潮文庫)

ぼくのプレミア・ライフ (新潮文庫)

読んだら再び、改めてすっごく心揺さぶられました。
ちょっと長いけど引用。

 ファンでいることについて、ぼくにわかっている唯一のこと――どんなにそう見えようと、それは代替的な喜びではない。だから、スポーツなんて見るものじゃなくてするものだよ、なんていう意見は的はずれだ。フットボールにおいては、見ることがすることと一致する。もちろん、エアロビクス的な意味あいにおいてではない。試合を見ながら耳からケムリが出るほど煙草を吸ったり、終わってから酒を飲んだり。帰る途中でポテトチップを食べたりするのは、ジェーン・フォンダ的には少しもいいことではないだろう。はあはあぜいぜいピッチを駆けまわっていたほうが、ずっといい。しかしぼくらにはある種の勲章がある。喜びはプレイヤーから発せられ、テラスの奥でぼんやり青く霞んでいるぼくらのほうへと広がってくるのではない。ゴールを決めるのも、ウェンブリーの階段をあがってプリンセス・ダイアナに会うのも選手だけれど、ぼくらの喜びはチームの喜びを水増ししたものなどではない。この日のような状況でぼくらが感じる喜びとは、他人の幸福を祝うものではなく、自分たちの幸福を祝うためのものであり、そして、悲惨な負けかたをしたときにぼくらを包みこむ悲しみとは、事実上の自己憐憫だ。フットボールの消費のされかたを理解しようとするなら、このことを頭に入れておかなければならない。選手たちはただぼくらを代表しているだけだ。選んだのがぼくらではなく監督であっても、ぼくらの代表であることに変わりはない。じっと目を凝らせばあなたにも、選手たちをつなぐ細い棒や、ぼくらが操るための小さなハンドルが見えるだろう。ぼくがクラブの一部分であるように、クラブもぼくの一部分だ。クラブがぼくを利用し、ぼくの考えを無視し、ときにひどい仕打ちをすることはわかっている。だからクラブとの有機的一体感を感じるなどと口にしても、ぼくは、プロ・フットボールの仕組みをぼんやりした頭でセンチメンタルに誤解しているわけではない。ウェンブリーでの勝利は、チャーリー・ニコラスやジョージ・グレアムのものであり、そして同時に、何から何までぼくのものでもあった(次のシーズン、グレアムからスタメン落ちを命じられ、その後放出されたニコラスが、この午後のことを同じくらい懐かしく思い出すだろうか?)。ぼくは選手たちと同じくらい、この試合に向けてがんばった。彼らとの唯一の違いは、ぼくのほうが何時間も何年も何十年も多くの時間をかけて試合に臨んだということだ。この午後のことなら、ぼくのほうがより深く理解していた。今でもあの輝く陽光が胸によみがえり、甘美な思いが広がるのは、そのせいだ。


ぼくのプレミア・ライフ(新潮文庫) - p294〜p296


もうホントにこの通り。最初に読んだときはあまり何も感じなかったけど、今読み返すとこの気持ちがすごくよく分かる。
チームや選手の喜びとは、究極的には僕らの喜びそのものなのだ。また同じ意味において、悲しみも僕らのものなのだ。そうやって長年クラブと歩みを共にして得られる栄光というものは、ずっと信じ続けてきた僕らへのご褒美なのだ。
そしてそのご褒美は、そのチームにいる選手たちよりも僕らのほうがずっと重みを感じることが出来ると信じてる。だってチームに関わってきた時間は選手たちより僕らのほうが長いんだから(笑)。
もうこの関係は宿命的に続くのだろう。これからもよろしく。
Till death do us part.